これまでのウィリアムズの多くの思い出、その隣には必ず車椅子の闘将フランクが見守ってくれていました。
謹んで、ご冥福をお祈りしたいと思います。
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土日も終わって、さぁ寝ようかと思っていた昨日、日曜日の23時過ぎ。
F1ファンにとってとても悲しいニュースが飛び込んできてしまいました。
『サー・フランク・ウィリアムズ逝去、享年79歳』
あまりに突然の訃報に言葉を失うとともに。
これまでフランクが我々F1ファンに残してくれた数々の思い出が甦ってきて。
なんだか眠れなくなってしまいました。
よほど古くからのF1ファン以外、多くの方はF1を見始めた頃にはウィリアムズが必ず居て。
そしてそこには必ず、この車椅子の闘将フランクの姿があったと思います。
皆さんそれぞれに、それぞれの思い出があると思います。
今日は管理人にとっての、フランクの思い出を綴らせてください。
バブル期のF1は、ウィリアムズ中心
管理人が初めてF1をテレビで見たのが、1987年F1日本GP鈴鹿です。
このレース、タイトルを決めたのがウィリアムズ・ホンダを駆るネルソン・ピケ。
そしてそのチームを率いるのは、車椅子の闘将フランク・ウィリアムズ。
そんなチーム代表が居るということを、テレビや雑誌で初めて知りました。
そしてホンダと袂を分かった1988年以降。
こちらナイジェル・マンセル。
そして、アラン・プロスト。
アイルトン・セナを擁するマクラーレンの、手強いこのライバルたちとともに。
静かな闘志、そして時には感情をむき出しにしてじっと見守るフランク・ウィリアムズの姿が印象的でした。
アイルトン・セナの死
そんなライバルとして戦っていたセナとフランクが、ついにタッグを組むことになったのが1994年。
元々、1983年にセナが初めてF1マシンをテストしたのがウィリアムズ。
なのでお互い、初恋が実ったみたいな感じでしょうか。
開幕前からセナとウィリアムズが、このシーズンを圧勝すると予想されていましたが。
ハイテク禁止によりとても不安定なマシン特性に悩まされたあげく。
第3戦サンマリノGPで、セナが事故でこの世を去ってしまいます。
この時のフランクの心境、言葉に出来ない想いだったに違いありません。
その証拠に、27年経った今でも。
ウィリアムズのフロントウィングには、セナのダブルエスロゴがひっそりペイントされています。
もっといろいろ、セナとは話したいことがあったのだと思います。
今頃、天国でゆっくり話をしているのではないでしょうか。
M.シューマッハ時代も、手強いライバルとして君臨
こちら1996年のチャンピオン、デイモン・ヒル。
そして1997年チャンピオン、ジャック・ビルヌーヴ。
アイルトン・セナ亡きあと、F1界を背負って立ったミハエル・シューマッハ。
その手強いライバルとして、ウィリアムズが存在感を見せつけてくれましたよね。
この1997年が、ウィリアムズが最後にドライバーズタイトルを獲得したシーズンです。
でもその後、2000年代前半に入っても。
こちらのラルフ・シューマッハやファン・パブロ・モントーヤなどを擁して。
皇帝ミハエル・シューマッハに立ち向かウィリアムズ、それを指揮していたフランクが印象的でした。
名門凋落と、奇跡の優勝
その後2000年代後半以降、ウィリアムズは長い低迷の時期に突入してしまいます。
2004年を最後に、まったく優勝できないシーズンが続きます。
しかし2012年スペインGP、奇跡は起きました。
パストール・マルドナドが、見事にポール・トゥ・ウィン!
この時のフランクの笑顔、忘れることができません。
でも、その後ウィリアムズは表彰台の常連にまで復活するシーズンがあったものの。
結局この2012年の勝利が、フランクにとって最後のF1優勝となってしまいます。
最後のレース屋F1チーム創始者
現在のF1チームは、良くも悪くも、世界的な大企業が威信をかけて戦っているイメージです。
対してフランクは、メカニックから身を起こし、レースが好きだから、レースをするためにF1チームを作った。
まさに生粋のレース屋さんだったと言えるのではないでしょうか。
そんなコリン・チャップマン、エンツォ・フェラーリ、本田宗一郎、ケン・ティレルなどと並ぶ、偉大なF1チーム創始者がまたこの世を去ってしまいました。
もしかしたら生粋のレース屋創業者としては、フランクが最後の人となるのかもしれませんね。
一つの大きな時代が終わった、そんなことを感じました。
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なんだか悲し過ぎて。
今日は、とりとめもなく管理人の想いを書いてしまってすみません。
こんなに数多くの名レースや思い出を、多くのファンにもたらしてくれた闘将フランク。
あらためて感謝してお礼を申し上げるとともに、謹んでご冥福をお祈りいたします。
以上、サー・フランク・ウィリアムズの逝去についてでした。